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結成・デビュー [編集]

2003年、人気アイドルグループを次々と排出してきた韓国大手芸能事務所のSMエンターテインメント(以下SM)が、それまで韓国のアイドル界では一般的であった役割分担を廃して、メンバー全員がメイン・ボーカルを務める「アカペラ・ダンス」という新たなスタイルを採用した男性アイドルグループの結成を計画し、SMの練習生の中から様々な組み合わせが検討された結果、それぞれソロや別グループでデビューの準備を進めていたジェジュン、ジュンス、チャンミン、ユチョン、ユンホの5人が選抜され結成された[7][12][13]。SM内では中国本格進出の切り札として位置付けられていたことから[2]、グループ名とメンバーの芸名に中国風の4字漢字が当てられ[14]、同年12月にSBSの特別番組で初披露、翌2004年1月にシングル「Hug」でデビューを果たした[15]

このころの韓国の歌謡界は、1990年代後半から続いていたアイドルブームが下火となり、などソロ歌手が全盛を極めていたため、東方神起が活躍できる余地はないと見る向きが多かった[2][16]。しかし、デビュー曲で『SBS人気歌謡』の「ミュティズンソング」を3週連続で受賞[17]。年末の主要音楽賞でも本賞や歌手賞を受賞し[18][19][20][21]、瞬く間に同国のトップグループへと伸し上がった[4]。この成功はSS501など他のアイドルグループの誕生を促すことになり、当時壊滅状態であった韓国アイドル界の再興のきっかけともなった[22]

海外進出 [編集]

2004年3月に台湾で1stシングルのライセンス盤を発売したのを皮切りに海外進出を開始させ[4]、同年11月にはグループ結成時からの目標であった中国進出の手始めとして、現地放送のオーディション番組を製作して新たに中国限定の中国人メンバーを選抜することを発表した[23]。また同時期に日本での活動もスタートさせ[24]、翌2005年4月にSMの提携先であるエイベックスのレーベル「rhythm zone」から日本語曲で正式にデビューした。日本ではアイドル色を薄めアーティスト色を強めたイメージで売り出し[25]、また当時日本でブームとなっていた韓流から距離を置いて活動した[26]

グランドスラム達成 [編集]

日本でのデビュー後、2005年9月に2集(2ndアルバム)『Rising Sun』を発表し、同月に蚕室総合運動場主競技場で5万人以上の観客を集めるショーケース・ライブを開催[27]。その後、翌2006年2月にはソウル・オリンピック公園体操競技場でグループ初となる単独公演[28]、同年5月から6月には日本で初めてとなるライブツアー[29]、翌7月と9月にはマレーシアとタイで「ライジング・サン・ファースト・アジア・ツアー」と題した韓国国外では初となる大規模公演を成功させた[30][31]

タイ公演を終えると、すぐに3集『"O"-正・反・合』を発表。このアルバムのプロモーション中に、ユンホがファンを装った女から接着剤が入った飲料水を飲まされるという災難に見舞われたものの[32]、3集は30万枚を超え年間1位の売上を記録し、同年のゴールデンディスク賞大賞を受賞した[33][34]。また、このほかMKMFでは「今年の最高アーティスト賞」、ソウル歌謡大賞やSBS歌謡大典では大賞を受賞し、韓国の主要音楽賞を制覇する活躍を見せた[34]

初のオリコン1位と韓国凱旋 [編集]

オーディション番組の先延ばし[35]などで中国への本格進出が進展しない中でも継続的に活動が進められていた日本では、なかなか知名度が上がらず、韓国で4冠を獲得しても学園祭に行き、歌える環境が整っていないステージで歌わされるなど、デビュー後すぐにトップスターとなった韓国では経験してこなかった新人としての地道な活動を続ける日々にメンバーらは苦悩を募らせていた[36][37]。しかし、「絶対に日本で実績を残してから韓国に帰りたい」と堪え忍んで、その後も活動し続けた結果[38][39]、徐々に知名度や人気が高まり[40]、2007年6月には日本武道館での2日間連続公演を成功させ[41]、翌2008年1月にはシングル「Purple Line」で初めてオリコンチャートで1位を獲得する[42]などの成果を収めるようになっていった。

そして、自身初の日本でのアリーナツアー[43]と前年から断続的にソウル、台湾、マレーシア、タイ、中国(上海・北京)で行われていた2度目のアジアツアーを同年6月までに終えると[44]、3か月後の9月には日本での成功を引っ提げて、韓国でのオリジナル・アルバムとしては2年ぶりとなる4集『呪文-MIROTIC』を発表し、史上初[45]となるソウル広場でのショーケース・ライブをもって韓国への本格復帰を果たした[46]。本作では変化した現地のトレンドに合わせるため、これまで東方神起の代名詞であった「SMミュージック・パフォーマンス」(SMP) の要素を弱め、より大衆性の強い楽曲で勝負した[47]。当初、かなりのブランクがあったことからメンバー間には不安が漂っていたが、このスタイルの変化によってファン層が拡大し[48]、4集は市場全体のフィジカル・セールスが落ち続けているなか46万枚を売り上げて、自身2度目となるゴールデンディスク賞の大賞を獲得した[49]。ジェジュンは、この成功を「国民アイドルグループから生まれ変わったよう」と評した[48]

ドーム公演成功と解散危機 [編集]

日本では2008年末、自身初となる日本レコード大賞ノミネート(優秀作品賞受賞)[50]NHK紅白歌合戦出場を果たし[51]、その余勢を駆って翌2009年3月にアルバム『The Secret Code』を発表した。新たにバーニングパブリッシャーズのバックアップを受けて[52]リリースされた本作は、東方神起の作品としては初めて日本レコード協会から25万枚以上の出荷を示す「プラチナ」の認定を受けるヒットとなった[53]。そして同年7月、韓国の歌手としてはリュ・シウォンに続き3組目となる、デビュー以来の目標であった[24]東京ドーム公演を成功させた[54]

一方、本国韓国では、2008年末にジェジュンがドラマの撮影に参加し[55]、翌2009年7月にはユンホとチャンミンもドラマ出演が決まるなど[56][57]、それまで見られなかったソロ活動が4集以後目立つようになっていた[58]。同年7月31日、ジェジュン、ジュンス、ユチョンの3人がSMと契約期間やハードスケジュール、収益配分など契約内容の不公平を理由に、SMとの専属契約の効力を停止する仮処分を裁判所に申し立てた[59][60][61]

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    makidesu 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()